ネグレクト―育児放棄-真奈ちゃんはなぜ死んだか (小学館文庫)
2000年12月10日愛知県名古屋市近郊のベッドタウンで3歳の女の子が20日近くも段ボールの中に入れられたままほとんど食事も与えられずにミイラのような状態で亡くなった事件のルポタージュ
おともだちMほちゃんが教えてくれた、大変に興味深い本だった。(まじ長いです↓。)
子どもを産んで育てる、ということは、やってみる前の想像の域を高く超えていろいろなことが起こり、次々と対処すべき問題がやってきて、文字通り必死。思い出すひまもないくらいの濃い日々。でも初めて、幸せだと感じながら生活することを知った日々でもあった。わたしは、恵まれていた。そう痛切に感じる。
本書に登場する夫婦は、二人ともわたしの一つ下で同世代。18で子を持った。父親は新卒就職したばかりで「男は仕事、女は家事育児」だと信じて疑わず仕事に集中する。そのタイミングにほぼ二人だけで子育てを始めることの限界がある。仕事を覚え始めの3年に毎日の子どもの夜泣きはきつい。かわいいと思えなくなった。そして脳に傷を負わせた。あとは終始ゲーム。母親は家事育児に疲れ果て、親とも悪関係、協力が適切に求められない。コミュニケーション力も乏しく社会福祉の手からもこぼれおちた。社宅マンションの一室は、若い家族の孤島になった。
私には、、、(自慢ではないですヨ。)
●今住んでいる子育てにやさしい町
●わたしだけが子育てをするのはズルイ、と言う夫
●良好なコミュニケーションがとれる双方の両親や兄弟
●愚痴を聞いてくれ他愛ないおしゃべりができる近いともだち
●幼い頃、父母祖父母にたくさんたくさん手をかけられた経験
●多くないが子育てを準備出来る分くらいのお金
●くだらいことをかけるブログ、インターネット
、、、が、あった。このすべてがあって、今、子どもをかわいいと思いながら生きられる生活を送っている。私に子育ての能力があったのではない。一見あたりまえのようなことに、自分が恵まれていただけだった、と痛切に感じる。
この両親は、上のひとつももっていなかった。そして極めて未熟だった。未熟でも生まれた子どもを育てなければいけない。「虐待は『世代の連鎖』だ」と、事件が起こった2000年当時はよく言われていた。それでわかったような気になってはいけないと、大学で聴いた。そこに真実も解決もないから。
ネグレクト。育児放棄。
はりつめた糸が切れてしまったとき、いつわたしも危ないだろう?一日に10分のネグレクト。それは、日常茶飯事。疲れていて、おむつが濡れてるのが分かっていても、まだいいか・・・これだって立派なネグレクトの始まりかもしれない。身につまされるのだ。
孤独な子育てをしていた母親の糸がいつしか切れ、多額のローン、収入に合わない買い物で借金まみれになり、どんどん転がり落ちて行く様子は、本当に恐ろしかった。逮捕時の家の中はゴミ屋敷同然だった。
最も悲しくいたたまれないのは。両親の暴力がひどくなり、お仕置きで三畳間に閉じこめられた、亡くなった子ども、真奈ちゃんが、ついにふすまをあけても、出てこなくなった時だ。真奈ちゃんは、狭いスペースで座ったり、寝ころんだりして過ごすようになった。段ボールに入れられるのは、まもなくだった。彼女はこのとき、もう生きたいという力を、無くしてしまったんじゃないだろうか。泣けてくる。
事件を聞き、本書を読んで、「理解できない」「同情できない」「信じられない」という声があるだろう。一方、「自分にも起こりうるかもしれない」「人ごとではない」という声もある。子育てをしている人に多いのではないか。子育てに「参加」、でも、「協力」、でもなく、子育てをしている人やしたことがある人。
もしくは、したことがなくても、犯罪に踏み込んでしまう、人間の危険を意識したことがある人。
わたしは、理解できない!と断言することが、できない。
ダウンタウンのまっちゃんが言っていた。「シラフの状態で『もう飲酒運転はしません!』と謝罪したところでどう信じられるのか、言うならベロンベロンの泥酔状態のときに同じことを言え。」と。それと同じことではないか。そこまでせずにいられなかった人の、状況と精神状態がどんなものだったか、ふつうの状況の人が、わかりきった常識的な糾弾をすることに、意味があるだろうか。精神状態の混乱を持てば、何をしてもいい、という訳ではなく。
いつもいつも、この手の事件は痛くなる。
「どうして?」。どうしてそんなことにまでなってしまったのだろう。鬼親(子)、冷血、ありえない、等々、そんな言葉は意味がない。糾弾すべきわかりやすい相手を決めつけ、たたき上げるだけで終わるのも意味がない。
真相は?ほんとうのことは?かんたんにはわからないけれど、そこを考えたいと思う。本書は、ほんとうのことを追求すべく動いた筆者の情熱があり、読み進めずにいられない。でもやっぱりわたしはわからない・・・なぜ、両親はこんなにも、自分の事件に無頓着なのか。
だれかにいとおしく、慈しまれた経験のない人は、他者をいとおしく感じ育むことを難しく感じるのか。私的領域でそういったニーズの充足が破綻してきている社会なのだとしたら、私的領域を規定する関係性に捉われることなく、お互いを慈しみ育む場を育てるしかないのかな、などと、考える。だとしたら、これは社会の仕事だ。(mixiのある人のレビューより)
助けて欲しいと声を上げる力がない人を、助けられないのが「法」だとしたら、お節介ばばあになってどしどし踏み込んで強引に助けるのが社会か。税金払って機能するものだけが「社会」じゃない、となりの住人も、通りがけに見かけた人も、社会。だったらわたしは、お節介ばばあになりたい。社会の中にいたい。お節介されて、お節介して、誰かを助けて、誰かに助けられたい。と、強く感じた。
出版社 / 著者からの内容紹介
第11回小学館ノンフィクション賞受賞作
ネグレクト【neglect】育児放棄。子供に食事を満足に与えなかったり、病気やけがを放置したり、長期間入浴させないなど保護者としての責任を放棄する行為で、児童虐待の中でも近年急増している。2000年12月10日、愛知県名古屋市近郊のベッドタウンで、3歳になったばかりの女の子が20日近くも段ボールの中に入れられたまま、ほとんど食事も与えられずにミイラのような状態で亡くなった。両親はともに21歳、十代で親になった茶髪の夫婦だった。なぜ、両親は女の子を死に至らしめたのか、女の子はなぜ救い出されなかったのか。3年半を超える取材を通じてその深層に迫った衝撃の事件ルポルタージュ。